●メッセージ
厳しい雇用環境が続く中、如何にこの世を生きていくか、生き残っていくか。一人の人間の生き様をとうして読者に感じ取っていただければと念ずる次第である。
大半実際に経験に即しているといっても過言ではない。
主人公の人生は転職に始まり永遠の心の転職は私の命の限り続いて行くであろう。どんな時代が来ようが夢と希望のある限り生きて行けると信じている。諦めは即敗北につながる。すべては何もないところから始まる。
小説では仕事が中心に展開するが、その影響を受けて行くのは本人の生立ちであり、環境、家族、友人、女性、趣味、プライド、性格等様々に関係する。仕事だけが人生ではないことは勿論否定するものでもない。
悲しいかな今の世の中で自殺者が3万人いる事実。人間の命ほど尊いものはない、人生は一度、悔いのない人生をどう生きていくのか。自分しか経験できない人生をどう演じて行くのか。
作者と共に深く共鳴し再考の道しるべとなればと思う。更に貴方の人生を今より一層謳歌していただきたいと思うものである。勇気ある強い貴方にメッセージを送ります。
●第2回目 村井 悟 今53才あっという間の人生だった。人間誰しも色々な出来事があるのは当然である。だが村井は不思議な気持で今の自分を見つめている。まだ、これからも想像つかないことが待ちうけているであろう。予想できないのが人生である。
只,村井は何があろうとも乗り越えて行ける自信は自分の中に持っていた。いままでも破天荒な人生だったから、・・・。村井の人生の歩みを振り返ってみる必要がある。世間では、今でも多くの悩みを抱えている人が余りにも多いことか。どうしようもなく自分で命を絶つ人が多い。時には一人で死ぬより仲間で死のうとネットワークで死にたい方を募っている。村井も過去自暴自棄になり何もかもがイヤになった事は何回もある。死にたいと思った事も。只、死は村井にとって恐怖だった。自分の身体がこの世から消滅する事を考えた時、非常に怖さが襲ってきた。虚しさとやりきれない気持が交錯してきた。いつか人間死ぬなら悔いのない人生を生きよう。どんな事があろうとも生きて生きて生きぬこうと。死については小学生の時から考えていた、死んだらどうなるのか
人間として何故生まれてきたのか?死について考えれば考えるほど深い深い思索に陥っていた。京都、奈良の寺回りが好きだった。悩みがあると一人でブラリと電車に乗り様々な仏像の前で何時間もじっと見つめていた。不思議に気持が落ち着いた。
孤独をいつしか自分の中で受け入れていた。紆余曲折な人生の中で【死】ほど大きな影響を与えたものはないと思う。
53年間の人生で仕事も20数回も転職歴があり、人が経験できなかった事が後になれば全て役に立っている事を思えば何が幸いするかわからないものである。村井の生立ちで、非常に貧しさの環境が大きく人生を左右し影響を与えた。
●第3回目 村井の生まれは岡山県津山市からはずれた小さな町の二宮であった。津山といえば津山城が中心で城下町として栄えてきた町。
慶長8年1603 ・森蘭丸の弟、森忠政が美作に入封。18万6,500石を領する。
元和2年1616 ・津山城が完成、城下町がつくられる
(津山市の歴史より)
二宮は津山市を東西に流れる吉井川を中心に周囲を山で囲まれた盆地で、風景がどれだけ人々の心を癒してくれることか。現在は人口も約9万人になったそうであるが、村井が育った頃は家の後ろが田んぼ、田んぼだらけといった方が正しいかも、その後ろに汽車が走っていた。その後方には二宮小学校があった。村井も小学3年生までお世話になった。学校の玄関には二宮金次郎の銅像が立っていた。片手に本を、背中には木々を担ぎ一心に本に目をやっている光景が村井の心に今でも強烈に焼き付いている。
村井の父、村井 正治の仕事は呉服の仕立て屋みたいな仕事をしていたが病気がちの記憶がある。母、里枝はグンゼ工場に朝から晩まで働いていた。村井の兄弟は7つと4つ違いの兄がいて三男で末子であった。正確には長男がいて早死にをしたらしく4人の男の子では母も苦労した事と思う。家は田舎の家らしく玄関も広く、一軒家であったが庭は小さな畑で野菜を、水は井戸水で桶を10メートルたらして汲み、風呂などは自分で作った記憶がある。五右衛門風呂みたいで大きな鉄釜に周囲の山から粘土代わりに掘って担いで固めて作った。全てが何から何まで自分でやって行かないと生活できない頃である。毎日の食事も自分で食べていた。学校から帰ると塩を持って線路傍に行き草を良く食べた。今思うと不思議なのは食べれるものと食べれないものとの区別が自然と身についていた。良く食べる盛りである。時には学校帰りに余所の畑で大根や芋を拝借しそのまま食べてよく追いかけられて怒られた事がある。又大根の甘味がなんとも言えないおいしさが当時はあった。そんなことを知ってか母は机の上に宿題はする事と言う書物と10円を子使いとして置いてくれていた。子供心に非常に嬉しかった。当時10円は子供にとって大金であった。パン1個は買えたと思う。それより遊ぶことのほうが楽しかった。遊びというよりも生活とかねていた。長男は吉井川で釣りで魚を、村井は河に貝をシジミや包丁貝を取りに又ミミズでうなぎの仕掛けと15本ぐらいの針をつけた仕掛けを吉井川に夜行くのであった。その釣果を朝早く起き引き上げてくるのが毎日の生活になっていた。その結果が朝の食卓に夜のおかずに反映するので必死であった。小使い稼ぎはくず鉄拾い、母のグンゼ工場は良く落ちていた。又家の近くに醤油倉庫があり屋根に登り瓦と瓦をつなぐ赤線が良いお金になった。今思えば心配になるが・・・。山にもマツタケ山がありいくらでも取れた。只上を見た時縄が張っていたので良く取れるはずである。目に見えない【かすみ】を作り鳥を取りに、赤い南天のえさの仕掛けや鳥もちですずめを良く取っていた。そうしないと生きていけない時代であった。神社で夜外映画をする時がある。朝一番に行くのである。良くお金が落ちていた。今思えば人間生きていく上で誰から教わることなく自然の中から、又生きることの執念からか身についてくるものだと思う。村井の幼少の経験が大きく人生を左右し影響を与えたのは事実である。どんな事をしても生きていく、(当然反社会行為は許されるものではない)、生き延びていくには何でもやれば出きるのだという自負心がこの時に出来たのかもしれない。村井にとって貧しさがかえって良かった。その他にも遊びは手作りのグライダー、竹とんぼ,こま等、、。生活は以前より更に厳しさが募りいよいよ家族も決断しなければいけない時期になっていた。
●第4回目
村井の父、村井 正治の仕事も殆ど無く、その上体調を崩し収入は母、里枝の細腕に全て重重しく掛かってきた。生活の為良く母親は悟の手を引き又背負って夜中に2時間ぐらい津山市内の質屋に着物を風呂敷に包み良く通っていたことを村井は記憶の中に鮮明と覚えていた。元々正治は川崎の航空会社に勤務し管理職としてがんばっていたが、全て戦争の影響で疎開する羽目になり生活も困窮してきた経緯がある。母,里枝の旧姓桐本は有名な赤穂浪士の出身だと聞いたことがある。長男耕治も生活の為岡山を離れ父の知り合いが経営している京都の呉服屋に就職することとなった。このままでは生活が困難と判断したのか、母方の親戚がある大阪を尋ねて引越しすることになった。悟が小学三年生の時である。故郷を去るときのなんとも言えない寂しさがこみ上げてきたのをよく覚えている。新天地での大阪では更に大きな問題が待ち構えていた。
●第5回目
悟自身、大阪の知識も先入観も殆ど無く当然友達もいなかった。津山でも近所の小学生の友達や親戚の子供ぐらいであった。津山では親戚も美容店経営を細々としている状態で、友達の家もたばこ屋、肉屋、墓石屋、農業等を営んでいるぐらいで悟にとって全ていつでも行き行きが自由で今の世の中みたいに物騒なことは無く鍵も殆どかけていなかった。大阪にきて一番困ったことは空気が悪く直ぐに扁桃腺を痛めゼイゼイしていた。学校も空気と水が合わなくて、風邪や腹痛で初めは良く休んでいた。健康には充分自信もあったし今までも津山では学校を病気で休むことなど無かった。環境が変われば生活も健康にも大きな影響を及ぼすことを子供ながら感じていた。それと言葉の問題で国語の授業で本を読み始めると回りがゲラゲラ笑い出すのには何故笑っているのか良くわからなかった。後で気がついたのであるが,どうも言葉のアクセントが少しおかしいらしくて笑っていたことに気がついた。悟は直ぐに顔が赤くなり顔面からだけでなく体全体から汗が迸る様であった。津山では自然を相手に遊んでいたが、大阪にきて友達もいなかった事でどちらか言えば無口になっていた。只救いなのは淀川の近くの塚本に住んでいたので学校が終われば淀川に釣りをしに行くのが楽しみだった。大阪の親戚に四人が世話になることとなった。初めは家が見つかるまで同居していた。暫くして、四畳半一間に四人暮らしが始まった。相変わらず家族の生活は困窮していた。当時も直ぐに仕事も無く,父親はまもなく鉄工所で働くようになり,母も男連中に混じって、バネ(スプリング)の会社に勤めるようになった。食欲お旺盛な男の子二人で中々生活は楽ではなかった。食事も主食は麦ご飯で醤油だけをかけて食べていた。たまに卵があるとご馳走に見えた。学校にも弁当は梅干一つのっている事も有った。母はそれでも子供だけにはと思いてんぷらを買って弁当の上においてくれた。母も食べたかったと思う。今思えばどこの母親も子供には精一杯の事をしたいと思っているのだろう。悟も中学校になる頃は、父親の母を見る事になり、祖母との五人家族となり部屋も狭く引越しを余儀なくされた。祖母は初めは元気であったが悟が中学1年生の夏、体調を崩し寝たきりになった。入院をさせる余裕も無かった。悟るも少しでも家計の助けになればと思い毎日新聞の朝夕刊を配達する事にした。悟がはじめて世の中で自分から働いてお金を稼ぐ仕事だった。
●第6回目(中学新聞配達時代)
悟は働く意味より少しでも家計のプラスになればの気持の方が強かった。新聞配達は中学卒業まで三年間朝夕配達した。簡単に新聞ぐらいと思っていたが,中々大変であった朝4時には起き二時間ぐらい掛かる。部数も300部ぐらいで、肩から紐でつるし本誌とスポーツ紙、小学生,中学生新聞等を脇に抱えて一軒ずつ配って行くのであるが,慣れないと肩や,腰に負担が重くのしかかり始めはかなりきつかった。3年間で色々貴重な経験をした。大変なのは冬の寒い時,眠気との闘いや、台風の時に風で何回も自転車が倒され新聞が散乱したとき、雨でびしょぬれになったとき、時には新聞を入れたときに大きな犬が居る事を知らず吠えられたとき等様々な体験が後で活きてくるとは今の悟には知る由も無かった。この3年間は人の温かさ、お金の価値,家に役立っているという満足感が、辛い苦しい事も全て忘れさせてくれた。新聞屋のご主人夫婦に可愛がられた。周囲は大人の人ばかりであったが親切に教えていただいた。今でこそチラシは機械化されているが当時は全て手作業でかなり時間も掛かっていたが慣れてくるとかなりのスピードで処理出来る様になり大人顔まけであった。特に悟は一度も休んだことがなかった事を今でも誇りにしている。そして返事だけは何でもハイという元気な声は先輩によく誉められた。休む事は許されるものではないとの感覚であった。特に新聞の場合は。たまに誤配があって怒られた事も今では懐かしい思い出の一つである。悟は新聞配達のあと学校に行っていたが、授業中にたまに眠気が来た事がよくあり、先生に見つかり罰則として廊下でバケツを持たされ立たされた。スポーツは野球が好きであったがグローブとか買えなっかたので、卓球を1年間したぐらいで,途中で止めてしまった。やはり朝が早いことと,夕刊があるので時間的にも無理があった。学業も普通であった。しかし何が幸いするかわからず、この中学3年間の新聞配達が,まさか次の就職に大きく左右するとは思ってもいなかった。
●第7回目(進路の分岐点))
人間誰がどこで見ているかわからないものである。又誰が味方になるかも解らない。その時その時を自分らしく精一杯努力する事が後で必ず報われる時がくる。村井の家は,毎日の生活がやっとであった.高校進学もおぼつかなく,中学3年生の時担任の先生からも将来の事で色々相談に乗ってもらった。たまたま住まいが大阪の淀川区で学校も大阪市立新北野中学校であった関係もあり、高校もとなりが大阪府立北野高校であった.しかし生活状況から普通課は難しく、考えた結果夜間の定時制に行くことに決めた。そうすれば昼は会社で夜は勉強できるとその時は単純に思った。昼の会社はどこを受けようかと思っていたが、出きるだけ学校に近い事を考慮したところ十三の武田薬品工業株式会社が良いなーと思った。この段階では自分の思いだけで何一つクリアしていない事であった。先ず北野高校を受験、運良く合格した。今度は武田薬品に入る事が大きく問題となった。ここで思いがけない事が起きた。上場会社に入ることは当時でも中々厳しいものがあった。家庭の状況、人間的な調査,様々な角度から知らないところで身上調査があったみたいである。悟がここで大きなプラスになったことが有る。中学3年間新聞配達を休まず続けてきた事が大きな重要なポイントになったのである。後で聞いた事であるが,新聞屋のご主人が言うには,採用の企業から直接担当者が訪ねてきて細かく勤務状況を聞いてきたとのこと。ご主人は悟の事を正直ありのまま話したそうである。
後で内定通知を貰った時は信じられなかった。今から思えば何事も一生懸命していれば直ぐ結果に結びつかなくても、将来必ず
人生にプラスになる事だけは間違い無いと強く確信を悟は持てるようになった。しかし現実昼の会社勤務と夜の学業の両立は困難が待ちうけていた。
●第8回目(旅立ち)
何事も新たな始まりは胸がドキドキするものである。期待と不安が入り混じり希望溢れる社会人と学生の生活がまさに今始まろうとしている。村井家のその後も経済状況は厳しさには変わりはなかった。悟も学歴がどうとかは頭から意識は無く、少しでも家計のプラスになればという考えであった。希望と裏腹に実際に仕事が始まると厳しさが身体に出てきた。8:00から始業17:00迄という毎日。仕事が終われば直ぐに学校に直行、夜9:00迄勉強、終わるとクラブ活動、帰宅はいつも11:00頃になっていた。いくら悟が若いといっても段々疲労が蓄積しあるときは仕事場でいつのまにか寝ながら仕事をしていた事もあった。この生活が4年間続くと思うと気持が切れてしまうものである。若いときは何もわからず只ガムシャラに言われたまま働き、素直に先輩に上司についていったという感じであった。仕事と学業の両立はそんな簡単なものではなかった。途中でやむを得ず退学する人も続出し卒業時には4分の一に減っていた。経験はまさしく財産である。でもこの苦労が後々生きてくるものである。又、楽しい事も数多く生まれた。教育は,その人を成長させる場所ともなる。様々な仕事の違う人との交流で友人も出来、その中から恋愛に発展し中には結婚する人も何組かいた。又クラブ活動で発散し一つの目標が出来、学校に行く楽しみが増えてきた。更に悟の人生に大きく左右する出来事がこの4年間で起きたのである。
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